綿村ノラの小説置き場

小説家になろうに投稿している小説を置いています

グッドモーニング

※小説家になろうにもほぼ同じものを置いてます(リライトの関係で細部が異なることがあります)http://ncode.syosetu.com/n3092cn/

 

 梅雨晴れの日、私の目覚めは最高だった。目覚時計ではなく、カーテンの隙間から射し込んだ朝日で目覚めることができた。黒髪ロングの猫っ毛に手櫛がすっと通った。素晴らしいことに生理も終わった。二枚目に焼いたホットケーキみたいに文句の付けようがない出来ばえだ。
 ベッドから抜け出た私は、日の光で焦げてしまいそうな制服を避難させてあげた。数学Aの教科書も日焼けしそうだったが、こちらは避難させなかった。じっくり焼かれてその罪を反省するべきだから。
 朝の身支度を済ませて、できたての朝食が並ぶ食卓に最高の気分で着席した。食卓を離れるときには最高の気分なんてどこかへ行ってしまったけれども。
 「恵子、使った調味料は元の場所に戻して」
 この母の何気ない一言が、私の怒りの尻尾を踏んでしまった。母にとっても私にとっても意外で、まさかそんな所に尻尾があるなんてという感じだったが、踏んで踏んでしまったものは仕方ないし、火がついた怒りは止まらない。覆水盆に返らず。尻尾を踏んだり踏まれたりという行為は常に意外性をはらんでいるものなのだ。
 調味料に端を発した口論は、母が私の鞄の中を見たとか、弁当をいれただけとか、ミツバチのように日頃の不平不満を飛び回った。結局、私は音を立ててダイニングテーブルに両手を付いた。「もういい、学校行ってくる」と、タンカを切って席を立った頃には、すがすがしい寝覚めは遥か彼方に消え去っていた。何を後悔したらいいのだろう。アスパラガスにコショウをふりかけたことだろうか。
 
 私には苦手なことリストがあって、それは天の川よりも長い。リストの一番上には、整理整頓と大きな太字で書いてある。整理整頓が大の苦手なのだ。けれど、母は無類の片付け好きだったりする。片付け嫌いと片付け好きが混ざると、予定調和の悲劇を引き起こす。今朝も罪深いコショウと結託して、律儀に悲劇を引き起こしていた。
 母は寝ている時以外は、整理整頓をし続けている。料理中も、お風呂の時も、リビングでくつろいでる時も。魚群探知機みたいに散らかっているところを察知する。驚いたイワシみたいな動きで、家中あちこち片付けている。おかげで家の中は食品工場みたいに綺麗で、唯一自然を保っている場所、つまり母の眼が届かないのは、通学鞄の中ぐらいしかない。私に残された最後の楽園、最後のプライベート。
 鞄には、電車の定期とか、携帯とか、リップとか、教科書が雑然と放り込まれている。時々体操着も入っていて、月に一度はナプキンと替えの下着が入っているし、バレンタインの日には、義理チョコと本命チョコも入っている。何かを取り出すには苦労するけれど、入れるのはとても楽チンだ。グチャグチャな鞄は私にちょっと似ているかもしれない。
 整理整頓したくなる日が来るのだろうか。十代があっという間におわって、二十代になって、結婚して、主婦になって子供を生んだりするうちに、何かを入れるより、取り出すことの方が大切になる瞬間が訪れるのかもれない。できれば私は、新しいものをポイポイ放りこめる魂のまま大人になりたいと思う。


                 ***


 早く学校に行ってしまいたくて昨日の雨で湿ったままのローファーに足を入れた。玄関を開けると太陽が親の敵みたいに日差しをぶつけてきた。重たい鞄を頭に掲げて陽射しを防ぐ。少ないお小遣いを削って日焼け止めを買わないといけない。化粧品メーカーは太陽に多額の賄賂を送っているに違いない。アスファルトに照り返された排気ガスが、スカートの中に入り込んで、汗ばんだ太ももを撫で回す。首回りに貼り付く猫っ毛も恨めしい。汗だくになって地下鉄にたどり着いた私は、イライラと地下へ滑り込んだ。

 電車から吐き出された人が改札から溢れ出てくる。押し寄せる逆流の中、一歩一歩改札を目指す私は修行者みたいだ。一体なんの修行なんだろう。
 人波に揉まれていると、ふいに人とぶつかり厚い胸板に額を押しつけていた。鼻先にぶら下がる赤いネクタイ、仄かに香るみそ汁の匂いで私は顔を背けた。前方不注意、お互い様だと思ったその瞬間「チっ」と舌打ちをお見舞いされた。電光石火なり。

 女子には旬があって、きっとそれは長くない。たぶん、私は今人生で一番可愛い時間を生きてるはず。それなのに、どうして舌打ちされるんだろう。たしかに、とびきり可愛いわけではない、けれど人並みじゃないですか。弾ける肉体との接触を、喜んでくれても良いじゃないですか。なんなら、紳士的な微笑みを浮かべつつ「けっこうなものを頂戴した」とか言って、財布からさっと1万円札を抜き出し、そっと握らせる。それぐらいされたって良いじゃないですか。なんで、舌打ちなんですか。
 生まれたばかりの小さな怒りは、出口を求めてつま先から頭の先まで、元気よく駆け巡る。どんつきに当たった怒りは、一回り大きくなって寄せ返す。朝の気分は、最低の中の最低に、深く深く深く、落ち込んだ。行き場を失ったざらざらの感情が、みぞおちあたりでのたうち回って、胸がつまりそうにる。
 
 袈裟斬りにされた私の心は、やっとのことで殺意を取り戻す。精一杯の鋭い眼つきで振り返る。足早に出口を目指す下手人は、周囲から頭一つ出るほど大柄だ。威圧的な体格とは対照的に、つむじ周りを覆う毛が心細い。小鉢に浮かぶ食べ残しのもずく酢を思いだした。
 頭皮に張り付く散らかった髪を睨んでいたら、ストンと力が抜けた。鼻腔に絡まっていたみそ汁の匂いが飛んでいき、Aカップの胸に詰まっていたザラザラが、鼻から抜けてクスリと音をたてた。思い出せなくなった精一杯の殺意に悔しくなって
 「禿げてしまえ」と低い声でつぶやいた。
 男は階段を登り始めていた。地下の空気に溶けた陽射しをうけて、脂ぎった地肌がテラテラ光るのが見えた。列車の到着を告げるアナウンスが聞こえる。私はホームに向かって駈け出した。